第51回大会 全体会の詳細

全体会・統一テーマ「朝鮮社会と仏教」のねらい

 朝鮮半島に仏教が伝来して以後、高句麗・百済・新羅などの古代国家では次々に仏教寺院が建立され、仏教文化が華開くようになった。その後、朝鮮における仏教は統一新羅を経て、高麗時代に全盛期を迎えるにいたる。仏教は信仰の対象であると同時に、文化そのものであった。仏教は王室をはじめとする支配層から庶民にまで大きな影響を与え、それは朝鮮半島の文化形成においても重要な役割を果たしてきたのであった。

 加えて、新羅円光の「世俗五戒」、皇龍寺の建立、高麗における大蔵経の彫版などに看取されるように、朝鮮の仏教が鎮護国家的性格をも兼ね備えていた点も看過できない。仏教は、その時々の政治権力とも密接に絡み合いながら、独自の発展を遂げてきた。朝鮮半島における仏教は、信仰、文化のレベルにとどまらず、政治的側面をも多分に有していた。

 一方、朝鮮時代以降の仏教については「排仏崇儒」の一言でイメージされることが多く、注目されることが少ないが、当然ながら、朝鮮時代に仏教が消滅したわけではない。近代においては、朝鮮仏教の存在意義が問い直され、社会的にそれなりの位置を占めるようになった。解放後の韓国においても、多くの人々の信仰を集める宗教として、仏教は巨大な存在感を示し続けている。このように仏教は、古代から現代にいたる朝鮮史の展開過程に大きな影響を与えており、朝鮮の政治・社会・文化を長期的観点から理解する上での重要なファクターの一つである。

 しかしながら、日本の朝鮮史学界では、朝鮮社会の史的展開に果たした仏教の役割や影響などが大きく注目されることはほとんどなかった。古代日本における仏教受容や寺院の建立をめぐって朝鮮仏教との関わりが声高に主張され、高麗の大蔵経が日本に現伝することが注目されることがあっても、日本にいながら朝鮮仏教について通史的知識を得ることさえ困難なのが現状である。そこで、本年度の朝鮮史研究会大会では、共通テーマとして「朝鮮社会と仏教」をとりあげることにした。

 報告者の安田純也氏には高麗における仏典刊行と学僧の役割を、押川信久氏には朝鮮時代における僧徒の管理を、金泰勲氏には近代「朝鮮仏教」の意義を、それぞれ素材として実証的な研究の成果を示していただくとともに、各時代における仏教の位相を照射していただきたいと考える。それらの報告をヒントに、総合討論を通して、朝鮮社会における仏教の意義、仏教と朝鮮社会の史的展開との関わりについて、追究していくことにしたい。

 仏教研究の裾野は広く、研究蓄積も深遠膨大である。朝鮮史学をはじめとする歴史学はもちろん、他の学問分野からも多くのご参加をいただき、当日の議論を実りあるものとしていただければ幸いである。

個別報告のねらい

高麗前・中期の仏典整備と学僧―華厳宗を中心として

安田純也

  仏教は、インドにおいて釈迦が創唱した宗教であり、朝鮮、日本を含むアジア各地に伝播している。釈迦の死後しばらくして、彼が生前説いた教えは経、教団の規則は律、教理の研究は論にまとめられ、この三種の経典を合わせて三蔵、大蔵経などと総称されるようになる。仏教が紀元前後に伝来した中国において漢語に翻訳された経典(漢訳経典)は、当初写経として流布したものの、やがて宋の開宝蔵を嚆矢とする木板印刷の大蔵経が登場する。さらに、中国等の東アジア地域では、漢訳経典に基づいて教理の研究が進められ、章、疏などと呼ばれる注釈的な仏典が著述されるようになる。

 高麗王朝では、建国当初から仏典の収集を進め、一〇世紀末以降、開宝蔵等の木板大蔵経を入手する。さらに、一一世紀前半の顕宗代以降、自国で高麗蔵(高麗大蔵経)の初雕本の刻板を開始している。初雕本の板木は一二三二年にモンゴル軍によって焼失したものの、まもなく再雕本の刻板を開始し、一二五一年に完成している。

 初雕本は開宝蔵等の覆刻に過ぎなかったのに対し、再雕本の場合、初雕本、開宝蔵、契丹(遼)蔵などの国内外の諸本を参照しており、加えて校勘記録である『高麗国新雕大蔵校正別録』三〇巻も現存しているため、大蔵経のテキスト中でも伝統的に高い評価を与えられている。

 『新雕大蔵校正別録』では、華厳宗の僧守其が中心となって学僧を集めて校正録を作らせ、守其が校正録を手許に集めた上で校勘を加え、最終的にまとめ上げたと推測される(藤本一九九六)。再雕本の刻板自体はモンゴル軍侵攻及び初雕本板木の焼失という事件を契機とするものの、その基盤となる校正録の作成は再雕本刻板以前からの高麗学僧の教学研究が反映されているのであろう。

 そこで、興王寺を拠点とする学僧の教学研究に注目したい。興王寺は文宗が一〇六七年に開京郊外に創建した華厳宗の大刹であり、大覚国師義天が初代住持となり、宋、契丹、日本などから章、疏等の仏典を収集して教蔵(続蔵経)四千余巻を刻板した場所である。報告では、華厳宗を中心とする学僧による教学研究(校勘、講会等)の事例を手がかりとして、高麗前・中期の仏教史に対する新たな見方を提示したい。

朝鮮中宗代の社会における僧徒の動向と王朝政府の対応

押川信久

 朝鮮前期の仏教政策に関する研究は、高橋亨氏がその歴史的変遷をはじめて体系的に跡づけ、李相佰氏・韓[?+右]?氏が各々「斥仏政策」「抑仏政策」の概念を提起して以降、主に韓国で、「斥仏政策」「抑仏政策」の概念を基本的に受け入れた上で、建国当初より成宗代までを中心に、成果の蓄積が進められている。近年は日本でも、「斥仏政策」「抑仏政策」の概念に必ずしもとらわれない形で、個別の事例を実証的に分析した研究成果が発表されている。

 他方、燕山君代以降の仏教政策の変遷については、燕山君の暴政の下で施行された政策や、中宗代後半における僧徒への号牌の発給、明宗代における仏教の中興といった特定の主題を除いて、従来の研究が充分な関心を払ってきたとはいいがたい。なかでも、中宗代の仏教政策については、中宗が一貫して仏教を排斥したとする見解が、特に批判的な検証を経ないまま、現在まで基本的に受け入れられてきた。しかし、中宗の治世が、反正からはじまり、己卯士禍をはじめ、複雑な政局の変化を幾たびも経てきたことを考慮すれば、仏教政策についても、個々の政局の推移を適切に把握した上で、王朝政府内部での論議の展開を明らかにすることが求められる。また、王朝政府の僧徒への対応を追究することは、王朝政府の対僧徒認識を窺い知る端緒となり、仏教政策のみならず、当該期の政治史の流れを掴む上でも、相応の寄与を果たすことになる。

 また、従来の研究では、文定王后の事蹟等を通じて、朝鮮時代の仏教史上における明宗代の重要性および特異性が強調されてきたが、明宗代に一連の仏教振興策が施行されるに至った背景について考察したことはなかった。中宗代の仏教政策を検討することは、文定王后が仏教振興策を推進した意図を読み取るのに必要であり、ひいては仏教史上における明宗代の位置をあらためて確認することにもつながる。

 さらに、中宗代には、軍役の徭役化や身役・貢賦雑役の布納化等に伴って、役制の動揺が深化し、流民や盗賊の増加等によって、社会の流動性が高まったことが指摘されている。こうした中で、避役をはじめ、様々な目的を抱いて剃髪した僧徒の動向を検証することは、当該期の社会の状況を具体的に解明するための手がかりとなるであろう。

 以上を踏まえ、本報告では、中宗代の仏教政策の推移を、当該期の社会における僧徒の動向と、王朝政府の僧徒への対応に注目しながら追跡していくことにする。

 近代『朝鮮仏教』の読み方―許永鎬の認識を事例として

金泰勲

 一八七七年、東本願寺の釜山布教を初めとして近代「朝鮮仏教」概念は登場した。本報告では、近代朝鮮社会において「日本仏教」との接触過程で生まれた「朝鮮仏教」概念の意味を考察する。

 一八九〇年代に入ってから日本人仏教者の眼差しを通して登場した「朝鮮仏教」という概念は、「日本仏教」という概念の成立を前提としてそれとの接触、共存の産物として現れてきた近代概念である。一八九〇年代から一九〇〇年代までは「日本仏教」に対する地理的な意味での「朝鮮仏教」、「朝鮮にある仏教」という意味合いで使われはじめた。しかし一九一〇年代に入ると、朝鮮の人々による自己言及としての「朝鮮仏教」が明確に認識され、一九二〇年代には植民地朝鮮と「内地」でほぼ定着する。「朝鮮仏教」の「改革」「維新」「近代化」などが強く意識され、「日本仏教」を相対化しつつ朝鮮民族の仏教というナショナル・アイデンティティとの接続が行われる。そして一九三〇年代に入ると、「朝鮮仏教」の独自性や独創性を明確に主張する言説が形成されるとともに通仏教思想を媒介とした統一体としての「朝鮮仏教」構想が進行する。また、戦争期になると、許永鎬にみるように、「朝鮮仏教」という概念が「帝国」「日本」「日本仏教」という諸概念をめぐる普遍と特殊の関係性のなかで認識されざるをえなくなる。結局「朝鮮仏教」は特殊としての「日本仏教」とともに普遍的な「帝国仏教」のようなものへの志向性を強く帯びるものとなる。

 従来、当該期を取り扱う韓国の先行研究においては、日本の帝国主義に協力した植民地朝鮮仏教界の親日性が「親日仏教」という概念で批判される一方、韓国仏教の近代化に貢献した様々な努力や苦悩は評価すべく、それを「民族仏教」という概念で説明する。要するに、「親日」と「民族」といった二項対立的な一国史の分析枠組みによって「朝鮮仏教」の読み方は錯綜している。

 本報告では、「帝国仏教」を構想していた許永鎬の「朝鮮仏教」認識を事例として検討することで、「親日」と「民族」で裁断されている近代「朝鮮仏教」を新たに照明する。

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