第56回大会 全体会の詳細

全体会・統一テーマ「三・一運動から朝鮮近現代史を問う」のねらい

 本年一〇〇年を迎えた三・一運動は、朝鮮の民衆が日本の植民地支配からの独立をめざした民族運動であり、その歴史的重要性に鑑みこれまで様々な角度から研究がなされてきた。主には三・一運動の発生原因について国際的背景や朝鮮の内的要因から分析したもの、独立宣言文を起草した民族代表の性格・評価に関する議論、朝鮮民衆の運動への関わりなどがそれである。近年ではこのような成果をもとに、地方における運動の状況、様々な階層と運動との関連など多角的な視点から論じられ、その歴史像は広がりを見せている。

 本大会ではこのような状況を意識し、一〇〇年を迎えた今、改めて「三・一運動をめぐる朝鮮近現代史を問う」というテーマに基づき、三・一運動を考えることとする。三・一運動を軸とした朝鮮社会の大きな変化としては、「武断政治」からぶ「文化政治」への転換がある。しかし、本大会では統治方針の変化という視点や、単に一九一九年前後の外的・内的要因という短期的視点でとらえるのではなく、一九世紀末から始まる日本の朝鮮侵略を起点として現在に至るまでの中・長期的な視点から三・一運動を論じることを目的とする。中・長期的な視点を通じて、韓国併合以前から始まる日本の朝鮮侵略及び植民地支配とそれに抵抗する朝鮮人の独立運動の中で三・一運動が位置付けられ、その状況が後の朝鮮半島の分断、現在の韓国社会、さらには日韓・日朝関係にも影響しているという連続性が明らかにされるものと期待できる。このような視点に基づき議論することで、一〇〇年を迎えた今、三・一運動とその背景にある日本の植民地支配がわれわれに何を問いかけるのか、改めて考察する場としたい。

 本大会では上記のような問題意識に基づき、金泰雄氏・愼蒼宇氏・小林聡明氏に報告を依頼した。

 金泰雄氏には解放後の韓国社会において、三・一運動認識の変遷と新たな模索がどのように行われているのかを論じていただく。南北分断後、政治体制の変化や東欧社会主義の崩壊など、内的・外的要因に応じて三・一運動が韓国社会でどのように位置づけられたのか、そして一〇〇年を迎えた今、どのようにとらえられているのかを提示していただく。

 愼蒼宇氏には、植民地戦争としての民族運動と朝鮮社会という視点から、三・一運動を位置づけていただく。三・一運動を植民地戦争の一環と位置付け、甲午農民戦争・義兵闘争との連続性、地域や階級、運動の支援・不支援による社会の分断などの視点を中心に、植民地支配責任の所在にまで踏み込んだ発表になるものと期待される。

 小林聡明氏には、米国人宣教師が見た朝鮮独立運動について発表していただく。アメリカ政府が、対朝鮮認識を形成していくうえで、どのように三・一運動をとらえ、そこに、朝鮮での活動経験を有するアメリカ人宣教師や米情報機関が、いかなる役割を果たしたのかについて検討する。解放後の朝鮮半島政策において三・一運動がどのように影響したのか、新たな知見を示していただく。

 以上、三氏の報告は挑戦的かつ斬新な視点からの発表であり、会場からも活発な議論が起きるであろう。三・一運動一〇〇年を迎える学術大会として、本大会から多大な成果が上がることを期待したい。

個別報告のねらい

解放後三・一運動認識の変遷と新たな模索

金 泰雄

 近来、韓国史学界では三・一運動に対する関心が再び高まっている。一九九〇年代社会主義国の崩壊と新軍部政権の終息により、一部学者を除外して一般人には特に注目を受けていなかったが、いわゆる建国節論争の本格化により三・一運動が今日に召喚された。こうして政治圏はもちろん学界の一角においても、一九四八年八月一五日を大韓民国建国節として記念しなければならないという主張が出たかと思えば、この日は建国節ではなく大韓民国政府が樹立された日であり、むしろ建国節は上海・大韓民国臨時政府が樹立した一九一九年四月一〇日であるべきだと主張している。このような論争の底には、何よりも大韓民国の建国勢力が誰なのか、そして上海・大韓民国臨時政府と大韓民国政府の相関関係の有無を問う問題意識があるため、このような議論は結局、三・一運動の性格と歴史的意義の問題に帰結せざるを得ない。

 このような中、今日大韓民国政府が上海・大韓民国臨時政府の法統を継承したという臨政法統論は、一九八〇年代進歩史学界で事実上否定されたことも厳然たる事実である。つまり、この法統は李承晩政権が自身の正統性を確保するため作り出した虚像ということだ。この点から臨政法統論の根拠が、李承晩政権の臨政法統論と連結される逆説を惹起させているのである。

 また、三・一運動が韓国人の新国家建設に向けた路程の分水嶺であったという点で韓国近現代史において重要な比重を占め、また中国の五・四運動に見られるように、隣国に影響を与え日本の政策変化を招いたという点からも、東アジアで占める意味はやはり少なくない。

 解放後、三・一運動の研究成果は、長い間、各時期に付与された各政派のアジェンダとかみ合いながら臨政法統論の根拠として活用されたり、臨政法統論否定の手段としても活用された。一九六〇年代を経て資料が持続的に発掘・編纂され学問的研究が深化し、イデオロギー的色彩が希薄化され、目的論的歴史認識が弱化したといえども、分断体制の深化と保守・進歩間の葛藤、日韓関係の悪化など依然として解決されるべき問題が少なくない。しかし、いわゆる建国節をめぐる政治的対立が持続しているにもかかわらず、韓国史学界自体においては争点をめぐる間隔が狭まり、臨政法統論と臨政法統否定論の対立を超え、「民主共和政」の樹立という歴史的意味が付与されるに至った。このような趨勢は韓国社会の民主化とともに、学術研究の自律性と研究の深化からその理由を探すことができる。ただ、近来に至ってディスコース分析にのみ重きを置いたばかりに、史料を発掘してこれを批判する中で、分析・総合を経て解釈に至る一連のプロセスを軽視する風潮に対しては、強く警戒しなければならない。

「植民地戦争」の視点から見た朝鮮三・一独立運動

愼 蒼宇

 今年は朝鮮三・一独立運動百年の年にあたる。しかし、日本の朝鮮史研究では、一九五〇〜六〇年代の「(社会経済史的)原因」と「主体」をめぐる発展史的把握、七〇年代の「民族統一」「挙族」の内容を問う論争(「民族代表論争」ほか)を経て、九〇年代以降、三・一独立運動に関する研究の数は大幅に減少しつつある。近年の朝鮮史研究では、運動史研究や植民地支配の暴力・収奪に関する研究そのものが忌避されつつあるからであろう。この間、「支配と抵抗」をめぐる二項対立の図式が批判されて両者の統合過程が重視されるようになり、日本と植民地朝鮮とのあいだの対立・暴力よりも、両者の相互連関、共犯関係が重視されるようになった。それは日常と秩序重視の歴史学であり、その傾向の長期化は、必然的に運動と弾圧、事件史(非日常)の棚上げと忘却、周辺化を進行させ、「武断政治」以前よりも、「文化政治」以降を重視する傾向を強めているように見える。

 他方、韓国ではこの間、韓国歴史研究会 三・一運動百周年企画委員会「三・一運動百年セット―全五巻」が刊行されるなど、三・一運動研究は現在も植民地期朝鮮の研究の中心的テーマの一つであり続けている。とりわけ、地域史、多様な主体の発掘に大きな成果があげられてきた。しかし、こうした「詳細な細部」の研究成果をいかして、改めて植民地政策史と運動史を統一的に、長期的視座のもとで「大きな歴史像」を提示するという面では、それほど大きな進展が見られない印象がある。

 三・一運動への歴史過程の屋台骨はもちろん日本の朝鮮植民地化とそれに抵抗する民族運動の展開にあり、それは日本の侵略に抵抗する朝鮮の人々を「暴徒」として軍事的に迫害していく過程である。その歴史過程を紐解くためには、日本の朝鮮に対する軍事的暴力と朝鮮民衆の抵抗の関係をどのように把握するかが問われることになる。本報告はその対抗関係を「朝鮮植民地戦争」の視座から把握しようとするものである。ここでいう「植民地戦争」とは、日清戦争と東学農民戦争、日露戦争、義兵戦争までの植民地征服戦争と、三・一運動を挟んで、朝鮮防衛のための朝鮮・満州・シベリアでの革命干渉・朝鮮民族運動弾圧戦争(間島虐殺)までの広範な「戦時・準戦時」行動の継続という植民地防衛戦争も包含する。そして、それは日本の大陸膨張政策と連関しながら、満州抗日戦争にもつながっていく「五〇年戦争」と捉えうるものである。それは弾圧する側とされる側の圧倒的な非対称性によって生じるジェノサイドにその特徴がある「治安戦」であり、「治安戦」から離れた植民地社会においても憲兵・警察支配の恒常化が図られ、日常生活から民族運動の未然防圧が進められた。植民地において「戦時」と「平時」は地続きだったという視点に本報告は立つ。

 以上の問題意識のもと、本報告は、以下の二つの視点から朝鮮植民地戦争のなかに三・一独立運動を位置付けようとするものである。第一に、日本軍隊から見た朝鮮植民地戦争である。具体的には指導層、派遣隊・朝鮮軍の系譜、経験の蓄積、朝鮮派遣部隊の迫害経験と郷土での言説構築について、これまでの報告者の研究に新たな知見を加える。第二に、朝鮮植民地戦争の現場(朝鮮社会)への接近である。東学農民戦争〜朝鮮三・一独立運動にかけての長期的展望のため、地域の植民地戦争経験について、黄海道と全羅南北道・慶尚南北道地域を中心に分析するとともに、「親日派」の植民地戦争経験と、「内戦」が恒常化する社会の様相について義兵戦争を中心に考察する。さらに、「武断政治」期のポスト義兵戦争、「静かな」三・一運動前夜をテーマに、義兵戦争から三・一運動にいたる「静かな対立」の進行の様相についての分析を行う予定である。

 日米開戦前後におけるアメリカ政府の朝鮮認識、その歴史的構造の一断面

 ―OSS(戦略諜報局)の情報活動とアメリカ人宣教師・家族の役割に焦点をあてて―

 小林 聡明

 第二次世界大戦期、アメリカ政府は、どのように朝鮮を認識していたのだろうか。朝鮮認識が形成されるうえで、三・一運動(そして、その後の朝鮮独立運動)は、どのような影響を与えたのだろうか。こうした問題意識から、本報告は、アメリカ政府の朝鮮認識について、日米開戦前後の時期に限定し、情報機関の一つであるOSS(戦略諜報局)の側面から切開することで、その歴史的構造の一断面を提示しようとするものである。

 アメリカ政府は、日米開戦以後、朝鮮情報の収集を本格化させた。その中心的な機関の一つとなっていたのが、OSSであった。そこでは、新聞や雑誌、学術研究成果などのオープンソースからだけでなく、ヒューミント(人間を媒介とした情報活動)を通じた朝鮮情報の収集も行われていた。とりわけ後者の活動で、もっとも重要な情報源となっていたのは、一九世紀末から朝鮮で活動していたアメリカ人宣教師と、その家族であった。彼ら・彼女らは、OSSだけでなく、OWI(戦時情報局)や国務省などにも積極的に朝鮮情報を提供していた。その背景にあったのは、彼ら・彼女らが有する朝鮮の人々へのシンパシーであったことは想像に難くない。宣教師や、その家族は、三・一運動を目撃したり、朝鮮独立運動を見聞きするなどの経験を有していた。彼ら・彼女らのなかには、朝鮮で見た独立運動の光景に衝撃を受けたことで、朝鮮の人々にシンパシーをいだくようになったと明言する人々もいた。こうしたシンパシーは、宣教師やその家族に対して、政府への情報提供を促しただけでなく、情報収集する側への協力を取り付ける原動力にもなった。実際、OSSによる朝鮮情報の収集・分析では、宣教師の子として朝鮮で生まれ、言語学者となっていたG・M・マッキューン(George McAfee McCune)が、中心的な役割を果たしていた。

 本報告は、情報提供者/情報収集者としての宣教師とその家族の役割に注目することで、情報活動を通じて形成されたOSSの朝鮮認識の特徴的な諸側面を示すものである。それは、次の三つの課題の解明を通じて行われる。第一に、OSSによる朝鮮をめぐる情報収集活動の実態について、G・M・マッキューンの活動や役割に焦点をあてて分析することである。第二に、宣教師やその家族は、どのような情報を提供したのかを明らかにする。このことは、彼ら・彼女らが、朝鮮に対して、いかなる認識を有していたのかを明らかにすることにもなる。第三に、OSSが収集した朝鮮情報は、どのように対朝鮮政策に反映されていったのか、あるいはされなかったのかを検討することである。

 本報告は、日米開戦前後という限定された時期に照準し、さらにOSSという政府の一機関に焦点をあてた分析であり、アメリカ政府が有する朝鮮認識の、きわめて限られた側面を照らし出しているにすぎない。だが、それは、三・一運動が有する世界史的なインパクトや意味について、アメリカという文脈から浮かび上がらせるための一作業として少なくない意義を有する。なによりも重要なことは、本報告で提示したアメリカ政府の朝鮮認識の限定された一面には、二〇世紀から現在にいたる東アジアのダイナミズムを読み解き、これからの東アジア世界を構想するうえで、重要な手がかりが埋め込まれていることである。これを掘り起こし、三・一運動をめぐる議論の俎上にのせること。ここに本報告のもっとも大きなねらいがある。

 なお、本報告で使用する史料は、主としてハワイ大学に所蔵されるマッキューン文書である。本報告には、複数の史料群から構成されるマッキューン文書の史料紹介的な意味も込められている。

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