全体会・統一テーマ

「朝鮮女性をめぐる構造と権力関係―近現代を中心に」のねらい

 近年、#MeToo運動のインパクトや韓国フェミニズム文学の日本でのベストセラー化、さらには未解決の日本軍「慰安婦」問題の再燃などを通じて、女性へのハラスメントや暴力、家父長制、女性の人権に関する議論があらためて浮上している。

 既存の歴史研究のなかで不可視化されてきた存在としての女性にスポットをあてる女性史研究は、韓国における民主化闘争の中で顕在化した女性運動の影響もあり、朝鮮史においてもすでに1970年代以降注目され、「近代」における新女性、民族運動における女性運動家などをめぐる実証研究が進んだ。その後、女性を歴史主体として復権させようとした女性史研究は、性差そのものや性差にもとづく生を規定する構造をこそ捉えようとするジェンダー史研究にも展開した。このような歴史学の流れとあいまって、朝鮮近現代史研究においては、植民地教育、公娼制、日本軍「慰安婦」などの実態解明から、ジェンダーを植民地社会における諸関係のなかで捉えていく研究があらわれた。

 この中で核心的な論点として浮上してきたのは、権力関係の問題であった。特に女性をめぐる権力関係は、ジェンダー間関係のみならず、民族や階級などの他の権力関係と絡まり合って機能する。中央の統治機構における政治・行政・軍事などで作動する権力だけでなく、地域や家庭、民間の組織など、より日常的な権力のあり方も同時に視野に入れて歴史を捉えることが重視されるようになってきたのである。

 この問題をさらに追究するため、本大会では「朝鮮女性をめぐる構造と権力関係」をテーマとし、吉川絢子氏、李杏理氏、喜多恵美子氏に個別報告を依頼した。吉川氏は、1910年代に女性が提起した離婚訴訟に対する判決文をもとに、日本によって朝鮮に「移植」された近代裁判制度を朝鮮の女性がどのように受け入れ利用したのか、また女性を原告とする離婚訴訟を植民地権力がどのように認識していたのかを分析する。李氏が明らかにする、1948年における在日朝鮮人の濁酒製造とそれに対する検挙起訴の実相は、民衆生活をめぐる構造と権力の重層性、複合性を如実に表している。喜多氏は、朝鮮民主主義人民共和国の美術を中心とした「女性表象」の意味の変遷を跡づけながら、女性を描く・描かれる権力構造に迫ろうとする。

 三氏の報告はそれぞれ、従来は閲覧できなかった、もしくはほとんど活用されてこなかった史資料を詳細に検討して新しい知見を得るものであり、テーマの主題領域を広げることで、従来の研究からもう一歩踏み込んで、朝鮮女性をとりまく複雑なリアリティを歴史研究として捉えることを可能にしている。さらに三氏の報告を通観すると、対象時期が朝鮮時代から植民地期を経て解放後、現代に及ぶことで、朝鮮女性をめぐる構造と権力関係が、日本の侵略と関わってどのように変化(もしくは不変)または形成され、そしてどのように現在まで継続しているのか、包括的な視野から考察することができる。活発な議論も予想され、朝鮮史研究をよりいっそう深化させていくことが期待される。

個別報告のねらい

植民地朝鮮における離婚訴訟に関する研究―原告の居住地の分析を中心に―

吉川 絢子

 植民地期に入り、朝鮮には日本を通じて様々な文物や制度が「移植」された。例えば、本報告で扱う離婚訴訟も、1909年4月1日の民籍法(隆熙3年法律第8号)の施行にともない、朝鮮に新たに導入された制度である。離婚訴訟をはじめとする新文物や新制度を、朝鮮の人々がどのように受け入れ、利用していたのかを明らかにする作業は、植民地朝鮮社会の実態を明らかにし、また日本による朝鮮支配の影響を具体的に考察するうえで欠かすことができない作業である。

 特に1910年代の離婚訴訟については、現在までの研究により、原告の大部分が女性であったこと、どのような理由があっても女性が男性に対して離婚を求めることはできないというのが朝鮮の離婚「慣習」であるという朝鮮総督府の主張とは異なり、朝鮮総督府裁判所では、女性からの訴えであっても正当な事由がある場合にはその離婚請求を認める判決を下していたこと、などが明らかにされている。しかし、どのような女性が離婚訴訟を提起していたのかを具体的に明らかにした研究は、管見の限り存在しない。

 このような研究状況に鑑み、本報告では、大きく2つの作業を行う。

 まず、1911年から1919年にかけて京城地方法院で下された離婚訴訟に対する判決文を利用して、1910年代当時、どのような地域に住む女性が京城地方法院に離婚訴訟を提起していたのかを明らかにする。分析対象が京城地方法院に限定されている理由は、資料所蔵先の業務の関係で、同法院で下された判決文しか閲覧が許可されなかったためである。また、原告の居住地域に焦点を当てて分析を行う理由は、居住地と訴訟行為との間には密接な関係があると考えられるためである。朝鮮人間の離婚訴訟の場合、どこの裁判所で手続きが行えるかは、朝鮮民事令によって依用することが定められた民事訴訟法により、被告の住所を管轄する地方法院に提起することが定められていた。そのため、被告が京畿道あるいは通川郡・江陵郡・襄陽郡・杆城郡・蔚珍郡・三陟郡を除く江原道に居住している場合、原告は自身の住所とは関係なく、京城地方法院に訴えを提起しなければならなかった。また、ひとたび裁判が始まると、口頭弁論期日に合わせて裁判所に出頭する必要があった。これらのことを考えると、実際に裁判所に離婚訴訟を提起し、追行することができる状況にあった女性は、審理が始まってから終結するまでの数ヶ月間のうちに複数回、裁判所に出頭することが可能な者に限られていた可能性が高い。

 次に、以上のような作業を通じて明らかになった結果をもとに、女性を原告とする離婚訴訟が登場したのは、女性の権利意識が向上したためであるととらえていた朝鮮総督府の認識についても考察する。これらの作業を通じて、離婚訴訟という限られた枠組みを通じてではあるが、植民地朝鮮社会の実像を浮かび上がらせることが、本報告の目標である。

在日朝鮮人による濁酒事件簿と被告人の状況―布施辰治弁護関係資料の1948年分を中心に―

李 杏理

 本報告は、朝鮮人による酒税法違反被告事件の詳細について、1948年分の布施辰治弁護関係資料を中心に考察する。

 1947年7月の閣議決定「酒類密造摘発に関する態勢確定の件」以降、朝鮮人集住地を対象とした酒税法違反取り締まりが強化された。日本では1890年代からすでに税収の確保と酒造業者保護を目的に酒の無免許製造は禁止されてきたが、敗戦前後はその目的に食糧確保が加わった。さらに、集団的で大規模な「酒類の密造は主として朝鮮人である」という認識のもと、一斉捜索とそれへの抵抗がなされた。

 「解放」直後は朝鮮人の失業率が明確ではないが、1952年の朝鮮人の失業率は当時の日本労働人口の失業率に比べて6.5倍という高率であった。実態調査書から浮き彫りになった秋田県鹿角市の尾去沢鉱山三菱鉱業所に募集ないし徴用で来ていた朝鮮人の場合は、日本敗戦とともに解雇となり、他に職を求めても雇われず、検挙の当時全員が無職であった。そのうち八割が朝鮮で土地や家を失って生活基盤がなく帰国したくともできないと答えた。戦時中の職場を失ったことに加え、物価の高騰と配給の不足、病を患う配偶男性の代わりに女性が「稼ぐしかない」など、「解放」後に窮迫した事情があいまって、最後のたのみとして「密造」していたことが仔細に明らかになった。

 先行研究は、戦時下朝鮮人の統制組織や共同体の分析、地域史と生活文化史に基づいて、濁酒づくりは「非同調、抵抗の姿」や「生きる術」であったと指摘した。これらについて報告者も同意するが、被疑者とされたのはどのような人びとであり、どのような状況にあったのかを明らかにするには、これまでの調査資料と供述内容により詳細に分け入って朝鮮人の存在形態を考察する必要がある。先行研究の成果に加え、濁酒事件の詳細と被告人の供述を検討し、人びとにとって濁酒とはどのようなものであり、地域と家族のどのような関係構造のなかに存在したかを考察する。

 また、報告者による既出論文を踏まえた上で、近年公開された資料から、税務当局がどのような認識と段階を経て「酒類密造」の取締にあたったか。朝鮮人がどのようにジェンダーを超えて濁酒事件に関わり、一人ひとりがどのような状況で濁酒づくりをしていたかを考察し、これまで以上に濁酒から見える人びとの生き様を掘り下げる。

 本報告では第一に、濁酒づくりに生活の糊口をもとめた背景を、在日朝鮮人の職業構成および失業率から探る。第二に、酒税法違反被告事件の詳細はどのようなものだったのか、布施辰治弁護関係資料から探る。1948年に起きた秋田大館事件をはじめとする事件群から違反事実と供述の詳細、被告人の状況、濁酒づくりや検挙現場での抵抗のありようを考察する。

 これらの作業を通じ、在日朝鮮人のおかれていた現実を具にし、法体系からはみ出た生活習慣を見えるものにすることで、朝鮮史に対する豊かな視点を提供したい。

朝鮮民主主義人民共和国美術における女性表象

喜多 恵美子

 朝鮮民主主義人民共和国(以下、共和国)の美術は日本や大韓民国(以下、韓国)で論じられる際、その政治性に重点が置かれるあまり、作品論や作家論が二の次にされることが少なくない。議論を困難にしている原因のひとつに、美術や作品をとりまく概念自体が共和国と日本、韓国それぞれに異なっているということがあげられよう。美術とは当該社会の価値体系の反映であり、同時に価値の構築そのものでもある。近代期に「art」を翻案した「藝術」という概念が東アジアに登場して以来、なにが「芸術性」を担保するのかという問題については、各時代や各地域、各文化において相応の葛藤と超克を経て規定されてきた。美術には権威や権力、国家の問題がかならずついてまわるのである。

 本発表の主眼となっているのは「女性表象」である。なぜこのテーマを扱うかというと、第一に作品を通じて共和国美術について考えていきたいということ、第二に非西洋文化において、「女性を描く」ということの意味を今一度吟味する必要があると考えるからである。描く者と描かれる者の間にはある種の権力構造が生み出される。また、「いかに」描かれるのかという問題も非常に重要である。

 朝鮮時代以降、儒教的価値観が支配的な知識層にとっては「女性を描くこと」は極めて異質な行為であったが、植民地期に日本を通して西洋近代の学術制度や価値観を受け入れ、さらに美術教育や展覧会といった作品「評価」をともなう美術制度が導入される中で、「女性」が描かれる対象として捉えられるようになっていったのである。とはいえ、既存の価値観が根本的に覆されたわけではなく、解放後の韓国においては、金殷鎬やその弟子の金基昶に代表される端正な「美人画」が日本画風として指弾の的となったことは示唆的である。

 創建直後の共和国美術はどうであったかというと、日本留学経験のある美術家が組織の中心となっていたこともあり、しばらくは日本画風の作品が制作されていたが、日本残滓の精算は韓国同様喫緊の問題であった。創建直後からソ連に画家を派遣し、ソ連式の美術教育への転換を図ったことはその一例であろう。平壌美術大学を頂点として末端は各労働現場のサークル活動に至るまで美術教育が行われていたことは注目に値する。1966年の金日成首席の教示によって彩色画を基調とした独自の「朝鮮画」が推奨されるようになったことで、共和国美術はさらなる展開を見せるのだが、こうした変遷の中で女性がどのように描かれてきたのかというと、男性と対等に任務を遂行する、社会主義国家の成員としての面貌を強調したものが中心となっているものの、一方で性的分業を感じさせる作品も少なくない。

 本発表では、共和国の美術を近代的美術制度導入期からの一連の流れのなかで眺望し、「女性表象」というキーワードを通じて共和国美術の現在地を探っていく。