第58回大会 全体会の詳細

全体会・統一テーマ
「高麗・朝鮮時代における国際交流の諸相―伝播・接触・受容―」のねらい

 朝鮮半島の歴代王朝は、周辺諸国・地域とのあいだでさまざまな交渉・交流を繰り返してきた。そこでは、多様な階層の人々の接触があり、思想や文化の伝播・受容に大きな影響を及ぼしてきた。

 近代以降、朝鮮半島の歴代王朝の国際交流はしばしば負の意味から評価された。たとえば近代日本における朝鮮史研究では、朝鮮の中国に対する事大、朝鮮への周辺諸国からの介入が朝鮮の歴史に決定的な影響があるとする他律性に焦点があてられることが多かった。戦後日本における朝鮮史研究はこうした負の側面に対する克服が目指され、一例として内在的発展論が注目されることもあった。

 近年、日本における朝鮮史研究では一九世紀の朝鮮と中国、日本の関係のように、前近代から近代への移行期における朝鮮の国際関係への注目が高まり、多くの研究が行われた。また朝鮮史研究会大会でも二〇〇七年に「朝鮮にとっての「中国」―高麗・朝鮮時代における文物・制度の受容―」、二〇一二年に「朝鮮王朝と海域交流」、二〇一六年に「再考・近世朝鮮の対清関係」のように朝鮮の国際関係について特集を組み、検討を行ってきたところである。一連の大会では朝鮮の国家中央がどのようにして元明清中国や周辺海域と向き合い、政策を展開してきたか、朝鮮からみた国際秩序がどのようなものであったのか、ということを中心に新たな知見を提供した。

 一方で、前近代朝鮮半島の国際交流の諸相は課題が多様にあり、さらに踏み込んで検討する必要がある。そこで本大会では、どのような交流を通じて高麗・朝鮮時代の人々が外国の思想や文化と接触し、また変容・発展させてきたのかなど、交渉・交流の現場の実態について検討し、高麗・朝鮮時代の国際交流の諸相を多面的に明らかにしたい。朝鮮半島と周辺諸国とのあいだで行われた交渉・交流の現場の実態について明らかにしていくことは、改めて当時の国際秩序や対外関係を考え、また近代に「国際交流」や「国際関係」が変化していくことを考えるきっかけにもなるだろう。

 今回は新進気鋭の研究者を迎え、高麗時代から朝鮮時代後期までの外国の思想や文化との接触、交流の現場における人の動きについてそれぞれ論じていただく。中村慎之介氏は高麗の国際的人的交流の一例として、一一世紀に北宋に留学した華厳僧侶である義天が高麗帰国後に行なった焼身供養について報告する。近藤剛氏は一一世紀なかばから日本と高麗を往来した「進奉船」の性格について、時期を分類して、進奉の背景や制度としての定着、変容について報告する。そして酒井雅代氏は一七世紀以降の草梁倭館(現在の釜山)における日朝接触の様相、とくに朝鮮と日本側双方の通訳官の制度や交流について報告する。

 諸報告を通じて国際交流の諸相を読み、個別具体的な実態の議論から高麗・朝鮮時代を再評価する端緒としたい。

個別報告のねらい

大覚国師義天の焼身供養

中村 慎之介

 仏教は中国に伝来して以来、中国在来の文化・信仰との摩擦を経験し、長い時間をかけて中国化し、漢字文化圏に定着するに至る。仏教が中国化する過程で、仏教を批判するさまざまの排仏論が展開されたが、なかでも中国に根づいた孝の立場からの批判は根強いものであった。そして仏教はその歴史展開において、孝を積極的に仏教自身の教えとして宣揚していく過程を辿った。

 仏教と孝とをめぐって、従前多彩な角度から議論がなされてきたが、漢字文化圏における仏教と孝との関係を考えるための一端として、高麗国の華厳僧侶である大覚国師義天(一〇五五〜一一〇一)の行なった焼身供養に注目したい。焼身供養なるものは自利利他の大乗思想に基づき行なわれる捨身の一種であり、自身の肉体に火を放つことで仏・法・僧の三宝を供養pūjāし、衆生救済や仏道成就あるいは往生が求められた。義天の焼身供養は文献上「㋑盂蘭盆の日に行なった焼身供養」、「㋺父母の命日に行なった焼身供養」の二種類が確認される。

 一見して明らかな如く、肉体を毀損する焼身供養は孝の概念と本質的に相容れないものであろう。そのため従来の研究において、孝の実践を目的とした焼身供養のあり方を論じたものは管見に入らなかった。

 ところが、北宋留学から帰国した義天は孝の実践を目的として焼身供養を行なっている(「㋺父母の命日に行なった焼身供養」)。言い換えるならば、義天のなかで焼身供養と孝とは矛盾しないのである。しかも、孝の実践が目的となる焼身供養は、決して辺境の高麗にのみ見られる特殊事例などではなく、中国においても僅かながらにその事例を確認することができる。

 そして、義天の焼身供養の目的は、義天の焼身供養の目的が入宋前と帰国後とで求法から孝の実践へと質的に変化していた。その要因を北宋仏教界との人的・思想的交流と高麗における政治的変動が齎した義天周辺の環境変化に求め、義天の焼身供養を一一世紀後半から一二世紀前半における高麗史上の歴史的展開として素描することを本研究の「ねらい」とする。

日本・高麗間のいわゆる「進奉船」について

近藤 剛

 モンゴル襲来以前の日本と高麗の交流に関しては、太祖朝の遣日使や刀伊の入寇、文宗の請医一件、初発期倭寇など、個別の出来事について知られているものはあるが、史料的な制約が大きく、日常的な通交・交流の具体像が明らかになっているとは言い難い。このような中で、『平戸記』延応二年(一二四〇)四月十七日条所載「泰和六年(一二〇六)二月付日本国対馬嶋宛高麗国金州防禦使牒状」や、『吾妻鏡』嘉禄三年(一二二七)五月十四日条所載「日本国惣官大宰府宛高麗国全羅州道按察使牒状」、『高麗史』元宗世家四年(一二六三)夏四月条所収「日本国宛高麗国牒状」に、「進奉之礼」・「元来進奉礼制」・「歳常進奉一度、船不過二艘」などの文言がみえる。いわゆる「進奉船」と称し、少なくとも一三世紀以前から対馬島や大宰府が高麗に船を派遣し、進奉物を介した交流が行われていたとみられるが、その開始や終焉、変遷については日韓両国で議論となっている。

 報告者は二〇一九年に上梓した『日本高麗関係史』(八木書店)の中で、この問題について検討を加えた。すなわち、文宗(在位一〇四六〜一〇八三)の治世に日本人による高麗への渡航および方物を献上する記事が散見するのだが、これを「行為としての進奉」として、いわゆる「進奉船」の開始を文宗代と位置づけた。一二世紀になると高麗へ渡航する日本人の記録が激減するが、これを日本国内外の状況から、高麗への往来が対馬島民に一元化されていったとみた。高麗側でもこのような動きを受けて、対馬島民に礼を備えた文書を携えた船舶の往来を求めるなど、「制度としての進奉」の形が整えられていった。それが一三世紀に入り、対馬島内における状況の変化や、いわゆる「初発期倭寇」の横行を受けて、倭寇禁圧を求める日麗交渉が一二二七年に行われた。そこで大宰府と高麗との間で、回数や船数などの規定を盛り込んだ「定約」が設定された。そして一三世紀半ば以降、モンゴルが高麗に圧力を加え、クビライが高麗を介して日本への招諭を行おうとしていく中で、進奉船も終焉を迎えたと論じた。

 本報告では以上のアウトラインに基づいて、当時の日本と高麗だけでなく、宋や契丹など東アジアをめぐる動向にも注目しながら、日本・高麗間のいわゆる「進奉船」を介した交流の具体像に迫ってみたい。

 朝鮮後期倭館における交流と外交―最前線における通訳官の活動から―

 酒井 雅代

 朝鮮王朝は諸外国との通交を制限し、中央集権のもと、礼曹が外交業務・日本関係を管掌していた。一方日本側は、重層的な構造を特徴とした。外交権は江戸幕府が掌握し、朝鮮王朝から江戸幕府に外交使節が送られるなどしたが(通信使)、日常的な外交の実務は対馬藩に任されていた。対馬藩は、釜山倭館を拠点に貿易をおこないながら、外交業務を担い、この体制が近世を通じて継続された。

 それをさらに腑分けしてみると、外交にかかわる意思決定は、朝鮮側においては通常、朝廷―備辺司―東萊府というルートで指示がなされ、日本側では、幕府―対馬藩江戸藩邸―対馬藩国元―倭館へと意向がもたらされた。両国間の外交交渉は、主に倭館でおこなわれ、最前線での実務折衝が、それぞれ倭学訳官(日本語通訳官)と朝鮮通詞(対馬藩の朝鮮語通訳官)とよばれる通訳官に担われた。

 近世の通訳官は、現在のように外国語を通じて意思疎通を助けるものとは厳密には異なり、いわば外交官としての役割をも果たしていた。対馬藩や東?府の上層部の立ち会いなく外交の事前折衝をおこなうことも度々あり、時には上からの規範を外れた相互交流があった。そのなかで、たとえば一八世紀末から一九世紀初頭の外交交渉においては、折衝に最前線で長年携わりながらも成果を挙げられず処罰された朝鮮通詞に対し、倭学訳官たちが協同して通詞の生活を支えようと心を尽くすほどの人的つながりも形成された。

 日朝両国の「平和」で安定的な関係は、先述のような分掌構造のもと、通訳官ら外交官僚が日常的に接触を繰り返すことで維持されていた。ところが既存の研究では、「(日朝)関係史」とはいいながら主に国家間の関係史・交渉史(制度史)に重きが置かれ、「現場」での諸活動は等閑視されてきたきらいがある。また、朝鮮通詞については、主に朝鮮文化の受容者として研究が重ねられており、外交官としての側面が注目されることは少なかった。

 本報告では、朝鮮後期、「鎖国」下でありながら日常的な日朝交流がおこなわれた釜山倭館を舞台として、日朝間の外交折衝事案を掘り起こしながら、従来の国家間の関係史では明らかにし得なかった当該期の日朝関係の姿を描き直すことを試みる。とりわけ日朝関係の最前線を支えた通訳官(倭学訳官・朝鮮通詞)に着目し、彼らの諸活動から、日朝関係の維持のあり方を考察する。

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